昭和41年03月21日 朝の御理解



 神様にお取次を頂いて、お願いを致します。お取次ぎを頂いてお願いを致しましたら、そのおかげの人間の小さい考えでの、こうなる事がおかげと言う様に思うて、おかげの当をしてはなりません。おかげの当てをしてはおかげにならん。神様の働きというものはね、人間が当てにしておるような小さいおかげでない。お願いをするけども、おかげの当はしちゃならん。ただここで確信を、いよいよ確信していかなければならない事は、信用させて頂かねばならんことは、おかげになると言う事。
 それでもそのおかげは、どの様なおかげになるか分からないという事を、その辺をよく分からなければなりません。お願いを致します。願いは様々沢山ありますけども、そのお願いをしたならです、自分達の小さい考えで、こうなりますように、あぁなりますようにと言う様に、おかげの当をしてはならん。おかげにしかならんという確信はいる。けれども、そのおかげの当をしては外れます。
 昔から、よく言います様に、当てたフンドシと何とかは、前から外れると言う様な事を申しますようにですね、当てしては外れます。だから自分の心の中にあてするものがある時には、はぁこりゃおかげを受けられん時だと思うて間違いない。そう思うてですね、おかげの当を外すとおかげになってくる、微妙ですね。信心のおかげというのは、おかげの後押しをしてはなりません。お願いをした以上神様におまかせして、そしておかげになるという確信、当じゃないです。
 例えていうならばね、受験なら受験、試験を受けるなら試験を受ける、お願いを致します。だれでも試験をお願いするからには、受かるようにというてお願いをする。だからお願いしているから、そのもう受かるだろうという思いを、捨てなければいけない。例えそれは自分の思う様になってもらわなくても、しかしおかげにだけはなるという自分の思うておる、小さいおかげより、大きなおかげになるという、確信は持たなければなりません。意味が分かるでしょうが。
 おかげの当てをしちゃならん。おかげは当てになるもんじゃない。お願いをして頂いたら神様にお任せするという事の為に一生懸命お縋りする。お願いをする。当てにしたおかげは当てにはならん。こりゃおかげになるという、そのおかげというのは、もう私達の小さい考えでおかげを推測したり予測したりは許されません。でないとその表れてくる結果に対して不平不足を云うごたる。
 最近もう十四、五日経つ位でしょうか、北野から深町さんという方がお参りしてくる。平田先生の従兄弟にあたる。昔子供の時分にお参ってきよって、今度奥さんをもろうて子供さんが出来られる。ところが逆産、逆子なんです。医者は非常に危険視するのです、と同時に十五日予定より遅れている。で医者はなんとか切開しようとなさる、けど神様にお願いにきたら自然に十日、二十日遅れてもかまわん。
 自然にお繰り合わせ頂いておかげを頂くように、逆産の事も心配いらんと、神様からその頂いて、本人も一生懸命に参ってみえる。ところがやはりその医者の見立ては確かなんですよね。昨日も参ってきて、もうけれどもいよいよ医者が、もう明日あさってまで待ってから、いかんならもう手術をするから、そのまぁ諦めてくれと、諦めてというか、覚悟してくれと言う事を言われて、昨日お届けに見えた。それならあんたそれまでには、いっちょどうでんこうでん、おかげを頂かにゃいかんという事でしたが。
 そしたら私がお取次を終わらせて頂いたら、一時間か二時間して、又お参りに見えとりますもん。そしたら早速催しが始まった。産気づいたわけです。ところがその逆子ですから、手の方から先に出てね、すぐお届けしてお願いにきましたから、私がね、四、五日前に動いてはいけないと言われているのに、自動車に乗せて、病院から奥さんを連れてからお参りにみえた。丁度私は二階におりましたから、二階で髭をあたってもらっていましたから、夫婦とも二階に上がって来たんです。
 そしたらなんかの事で、あの家内が上がって来ました。だから私は申しました。「もう奥さん心配いらんですばい。あんたうちの家内に会うたけん、もう安産のおかげを頂くよと。」そう言う一つの迷信じゃないけども、そう言う事を確信したですね。ここでお産のお届けにきて、奥さんに会うたら安産のおかげを頂くと、皆が思い込んでいる。うちの家内が非常に安産のおかげを。七人の子供を持っておりますけれども、上二人は大変な難産でした。三番目のは逆子でした。
 けども普通よりそれからこっち、ずっとこちらに帰らせて頂いてからも、こっちのは四人とも、それこそ安産で、安産も安産で隣り知らずの安産のおかげを頂いておる。だから、もうお産のお願いは奥さんにお祈り添えしてもらうが、いいち皆がそう言う位にある。だから私は申しました。あんたも椛目で、ここでその会う事が出来たから、安産のおかげを頂くよ。何がなんだか分からんごとしておりましたけども、私もそう思うた。それでお願いしてすぐ帰ろうとするから。
 今日はあんたは、そのすぐ病院に行きますというからね、病院には行きなさんな。ここで一生懸命拝まんのと言うた。ね、一生懸命御祈念ばしよらんのと、それからここで一生懸命行きたいようだけども辛抱してから、御祈念をなさいました。それから自動車で来ておりましたから、自動車の御用が千足に、ある人を送っていかんならん用があったりしてね、そういう御用を致しておりました。それで私も昨日、ちょっと用件で久留米に参りましてから、久留米行って帰って来ておりましたら、もうおりませんでした。
 もうやっぱり心配なんですね。そして私はここで、お願いさせて頂きよりましたら、両親が非常に難産の事より生れてくる子供が、娘じゃあなかろうかという心配があるわけです。娘だと今年は丙午というわけですよね。丙午てなんてん、勿論迷信お道の信心でいうたら、なおさらそう言う事は、ご無礼になる事ですけどね、神様は安産のおかげを下さるという、私は思とったけど、男じゃろうが女じゃろうが分からん。
 それでその深町さん、椛目の金光さんは、もう前からお名前を頂く人が沢山あるげなけん、お名前をお願いしておくと男か女か分かるから、その安心だけでも出来るけんと思いよったけど、それとも難産の死んで生れるか生きて生れるか分からんと、名前を頂くのもご無礼としっかり思うた。そしたら丙午ではないという、丙午でないと言う事は、これはあのう娘でないという息子だなあと思いましたから。
 神意を伺ってお名前を頂いて、ところが私としては、そんなら手から先に出て来るてんなんてん、というお届けをしておるもんですからね、これはおかげ頂かにゃあいかんというて、又お願いさせて頂きよりましたら、私が又出掛ける用があって、また出掛けようとしている所へ又お礼に出て見参りました。おかげで生れました。ここで御祈念させて頂いてやらせて頂きましたら、深町さん、この子供だけは諦めてくれと、医者が言うた。いわゆるそのどうしても手から出てくる。
 ですからやはり手も足もバラバラにしてから、出さにゃならんそうです。母体の方が大事だから。あのもうそれこそびっくり致しました訳ですね。神様は安産のおかげというて下さったのに、あなたバラバラにして出さんならんと医者が言うもんだから、諦めてくれと言われて、それでその腹を決めて、私は実は金光様にお願いしてから安産のおかげを頂くといわれるから、先生どうかいっちょ手やら足やら、バラバラにせずに産まさせて下さいというて、一生懸命医者に頼んだ。
 これはほんなこて、一生懸命に頼んだちゅうて、涙ぼろぼろ流していうですけど、そしたら先生、そのお願いした次にはですね、もうたまがるようにです、安産のおかげを頂いておるのです。もう本当にありかなんか分からんですね。そしてその事をお届けに参りましたらお名前まで頂いておるもんですから、いよいよ感激してから、初めておかげの有難さが分かったというからね、信心の有難さが分かったというからね、深町さんこれはね、信心の有難さでないとよ、あんたがたはおかげの有難さだから。
 おかげの有難さではいかん。必ず喉元過ぎれば熱さを忘れるになるから、これから夫婦の者が、この頃から夫婦の者が参ってきた、と言うた様にこの子の為にしっかりおかげを頂いて、信心の有難さが分かるようにならなければいかんよ。私が申しました事でしたっけれどもです、お互いが信心の有難さという事が、私が一番始めに申しましようにね、おかげをお願いする、そのおかげを当てにする。私の今のお話の中からですね、当てにはいちょんなっておらんとでしょうが。
 思いもかけん方におかげになっているだけであってですね。当てした事にはなっておらん。ただこちらの当てにしておるより、以上の事になってきておる。安産のおかげを頂く事でも、そんならお名前の事でも男か女かという事でも、信心させて頂いてからお願いをしたら、そのお願いをした事の当てをしてはなりません。これはもう世間で言う諺の通りですね、信心をうがった言葉ですね、当てにしたものは向うからはずれると言う事です。お願いをした最後は神様にお任せする。
 そしてから思わならん事は、自分の思うておる以上のおかげにはなると言う事。例えば試験に落第しても、落第した事が、却っておかげの元になると言う事では、確信してよかです。この神様は、ね、だから試験がもうお願いしておるけん出来るじゃろうという、これは間違いです。出来る出来けんは一生懸命受かりたいから、お願いするけれども一生懸命お願いして勉強もするけども、人力の限りも尽くすけれども、それから先は神様に任せないと。小さい予測とか推測を以て当てしちゃならん。
 当てすると却っておかげは外れてくる、傾向が非常に強いという事、ね。そして思いもかけなかったとか、本当に夢のごたおかげとかという、おかげを頂く為にです、おかげの後押しをせず、おかげの確信をしなければならない。おかげにはなると確信する。それは自分の思いの小さい事も、必ずおかげにはなる。そのおかげというものは、私達ども思いもかけないおかげになっている事を、確信しなければならない。試験が出来るとか出来ないという事ではない。
 出来なくても落第した事が、却っておかげの元になるという確信なのである。昨日、菊栄会、それから青年会の幹部会がありよりました。昨日はあのう福岡の落合先生が見えてからここで、玄関のドアの色の事や、いろいろ皆さんが研究しておられます。今度、京都の桂宮がお玄関が建てなおった。それがあの大きなドアがプラスチックで出来ておる。鉄にするかアルミにするかと、いろいろあったのですが、プラスチックにすると非常に軽いそうです。それから着色が自由だそうです。
 しかもその着色がですね、私が言っておる、その朱色だそうです。それがもう実に見事だそうです。私もその事については、いろいろ色を考えたのですけど、宗教的な色彩というものは、やはりあの朱が一番宗教的と感じたから、うちも私は朱にするという。朱はどうも皆が反対するんですが、見てご覧あげな簾やら、こげな簾やらの色は赤じゃんの。だからおかしくなかじゃんの。却って一番宗教的な色なんだと。いろいろ説明しよったら、はあやっぱり朱がよかろうと言う事になったのです。
 そこで昨日秋永先生がそういう、桂宮の朱になったという事を聞いて、私もいよいよ確信したわけなんですね。朱色に決めたと。それがその今ちょうど文化センターで桂宮のカラーの写真展があっている。ですからそこにも違わん出ているから確かめるようで、いっぺん見に参りましょうと、そこに委員長も参りました、秋永先生も来ましたから、もう終わってからでした、昨日少年少女会の部会の卒業の何かがここであっておりましたが、それを私は若先生にまかせて、久留米に参りました。
 それは本当にもう見事、見事そりゃもう私はもう写真展のあんな見事なのは初めてでした。皆さん今日限りですから、いっぺんでけたら是非おいでなさい。それは本当にもう百聞より一見です。いっぺん見てみらんと分からんです。建築の美しさ、庭の庭園の美しさですね。それが実に見事な写真なのですよ。今日ぎりですから、本当に昨日私は皆にすすめて、若い者もやりましたし、久富先生や久保山先生が私が時間ぎりぎり迄でしたけど、見られました。皆やっぱり見事だと云うております。
 そういう、その見事な写真を見て来ておりますもんですから、秋永先生が又すぐ御造営の方に行っておりました。私は知らなかった。そしたらもう構想を一生懸命練っているのですね。良い建築を見て来ているものですから、そして東脇殿の方の、ちょっとしたミスだと思う様な事があっておった事が、却ってミスのおかげで、こんな素晴らしゅうなると言った様な図面を書いて、あそこで一生懸命自分で考えついた事を図面にしてきとったのが、なかなかよいのです。
 誰が見ても成程これはいいなあと言う様な事なのです。私もそれはいいなあと思い、それはまぁ思い付きだなと感心しとったのです。所がですね夕食を済ませて頂いてお風呂を頂きだしたら寒気がきた。そして頭がビシビシ痛む。昨日は菊栄会菊栄会の連中と秋永先生がまだいますから、本当に無理してでも出たいと思いましたけど、出られん位寒気がするもんですから、コタツを入れてもろうて、それから休ませて貰った。そしてどこに御無礼があったのかと、先に寝ながら一生懸命お詫びをさせて頂いたんですね。
 そしたらね丁度その空の枯山水、水の無い泉水にこう橋が架かっている所を御心眼に頂きますもん。はぁと私が思い当るものがあったんですね。お恵みのいわば水が入らない、それはなんともかんともいえない見事なんですよ。見事な事はだからね、見る御広前にでもなったら大変だと言う事ですね。神様は成程桂離宮を模して、東脇殿が出来て見事になると言う事はいいだけども、そりゃあちょいと見事、いっぺん見に行ってみなさいと。あのセンスあの感覚、そりゃあ素晴らしいと。
 例えその事だけを、いわゆる見る桂離宮あたりのように、京都あたりの寺さんやお宮さんのように、ただ観光客が集まって来ると、言った様なものになってはならんという事。しかも東脇殿の一番お参りさせて頂いて、一番有難いという気持、それから御広前に行って御祈念させて頂かねばならんという、一番大事なところ、一番始め入って、はぁこりゃあ素晴らしかというだけで、有難いものがそこで抜けてしまったらいけんという訳です。こりゃ秋永先生の図面書いているのも素晴らしいけども。
 こりゃ始めの通り、やはりいわば飾りの無い、飾りともいおうか、ただ私はだから、もうあの御広前に進ませて頂く、廊下なんかからは石庭なんか、庭なんか見えないように途中で、こりゃあむごう出来ておると見ていった。後でいけないとこれは私が思とったから、もう見えないように窓でも高くしてもらう様にしているのですね。ですから東脇殿から御広前に進むまで何にも見えない。ただ御広前に額かせて頂いて有難い御広前としての、いわゆる人が助かる場の、御広前でなくてはならないというのがです。
 見る為の御広前であったり、東脇殿であったり、その裏の方はこれはまた別ですよね。けれどもここまでは、人の助かる場でなければならんのだから。助かる場のこの東脇殿の入り口はです、そんなにこりゃあどういう考えじゃろうか、どうした素晴らしい、これは感覚だろうかと言った様な事で、言わば人の心を抜いてしまう様ではいけないというお気付であった事に、気付かせて頂きました。その事をお詫びさせて頂いたら、おかげで今朝は又こうして起きられた。少し風邪気味はあるけれども、こんな事でした。
 信心させて頂いて、私共の信心の願いというものがです、願う事がです、第一神様の気感にかなう事の願いでなくてはいけないと言う事。それは牛や馬の事に至るまで商売繁盛の事から一切どの様な事でも願えとおっしゃるけれどもです、その願う事がです、願う事が神様の心にかなう願い方でなればいけないと言う事。その事が今の事で分かるでしょうが。それは立派になる事だから、銘々が自分の事として自分が使う事として、例え御造営の事でも心を、砕かなければならないのでございますけれども、それが立派なると言う事神様の心に叶わない事はいけないと言う事。
 今皆さんが願っておられる、その願いという事がです、何でもよい、商売繁盛でもよい。けれども、それが果たしてです、神様に喜んで頂く様な願いかという事です。農作物が立派に出来ます様にという願いもよい、けれどもそのギリギリのところは神様に喜んで頂く為の願いかという事です。ただ自分が儲けさえすればよか、自分が便利さえすればという為のです、願いであってはならないという事。一貫したもの、それを神様に喜んで頂く為の願いでなからなければならないという事。
 同時にお願いをすると言う事はです、当てをしてはならないという事。当てすりゃあ向うから外れると言う様な理の元にです、当てしたおかげは外れる。だからおかげを確信せよと、私は今日しましたね。それは人間の小さい知恵や考えやらの、人間のおかげでなくてです、おかげには絶対なるんだ、けれどもあてしておるおかげは、先ず頂かん時と思うて、そのおかげを外す気になると、向うからおかげが表れてくるという例を、深町さんのその例から、私は申しました。
 お願いと言う事は、例えそれが御広前の事でありましてもです、素晴らしい思い付きや考え付きでありましてもです、神様にお喜び頂ける様な、願いのものでなければならないと言う事を、今日はえらい複雑に申しましたけれどもです、その二つの事を実は申しました訳です。私共が願っておるという事が、神様に喜んで頂ける願いかどうかと言う事を、先ず確かめてみなければいけません。そんならどうぞ、商売繁盛を願うておると言う事がです、同じ事であっても、中身内容、ね。
 自分が、ただ我情我欲の為の商売繁盛であってはならないと言う事。同時にお願いさせて頂いたら、おかげのあてをしてはならないと言う事。二つの事を申した積りですけどね、どうぞひとつおかげを頂きまして、ただ信心をする、例えば拝まして頂くと言う事はです、お話を頂きますと分かるでしょうが。分かった分だけ、皆さんのもの。そこに、言わば、信心が向上する事によって、おかげもやはり高度な向上したものになってくる。
   どうぞおかげを頂いて下さい。